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​国吉神社

 千葉県中央部がまだ上総国となる1500年の昔までこの地域はいくつもの小国に分かれており、長生・夷隅地域を伊甚国造(いじみのくにのみやつこ)が治めていました。第27代安閑(あんかん)天皇の御代、国造は春日皇后に屯倉(みやけ)(御料地)を献上し、現在の神社の鎮まるいすみ市苅谷の地に勅使を迎える為の仮屋(かりや)が設けられ、後にこの仮屋跡に伊甚国造の祖である天穂日命(あめのほひのみこと)(出雲国造の祖でもある)と建比良鳥命が仕えた大国主命の御子神である健御名方命がまつられたのが始まりです。後に各地の神々が合祀され国吉神社と称されるようになり、厄除け・八方除け・交通安全・家内安全の神社として信仰されています。                    

金比羅社.JPG
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出雲・社殿.JPG
日御碕社.JPG

金刀比羅神社

日御碕神社

出雲大社上総教会

 国吉神社の隣には健御名方命の親神にあたる大国主命をまつる出雲大社が鎮座します。  幕末の作田村に斧嶽(ふがく)と号する人並みすぐれた怪力と才知の持ち主がおり、その怪力ぶりは米俵二俵を背負い、両手に一俵ずつさげて持ち、口に一俵をくわえて持ち歩いたと伝えられる程でありました。長州征伐の際、幕府軍の目付役となった村の領主は、強力無双の斧嶽を従者に選び島根県へと到着したが戦はすでに終わり、折しも出雲大社の奉納相撲が催されており、斧嶽はその相撲に加わり無敵の強さを示した。あまりの強さに千家宮司は神業としか思えないとして斧嶽に神璽(みしるし)を授けました。故郷に帰った斧嶽は仮殿を設け篤く信仰し、信者は日増しに増え、現在地に明治二十四年に神殿を完成させ翌年には盛大な遷宮式が行われました。 

 大国主大神は古事記・日本書紀等の神話で日本の国土を治める神様として語られており、天照大神の遣わした使者の求めに応じて、国土を天孫に譲り渡し、自らは霊魂の逝く幽冥界の主宰神となりました。十月を神無月と呼ぶのは全国の神々が出雲大社に集まり留守になるからとも云われており、集まった神々は大国主大神の前で縁組みの相談をするとも伝えられ、今日では縁結びの神、福徳、開運の神として信仰されています。

 

 

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